2015年12月23日水曜日


 大しめ縄を渡す     201512

大しめ縄を渡す前に、雑木林を切り開いた「参道」へ降りるためのスロープを造る。切り株を掘り起こしていると、土中に 埋もれていた大量の酒ビンが次々に出てくる。おそらく、「向日比青年研修道場」の面々が興じた酒宴の跡だろう。厄介なゴミには違いないが、明神鼻の小屋の歴史の一部と考えれば、無碍に捨ててしまうのも惜しい。ということで、スロープ脇の縁石代わりに埋めておくことにした。

しめ縄を渡す
しめ縄は乾燥して軽くなっていたので木の間に吊るす作業はさほど骨の折れるものではなかった。
まず、しめ縄の端に結わえたロープを持って木に登り、ロープを太めの枝に掛ける。そのロープを木の下から引っ張って滑車の要領でしめ縄を吊り上げる。
 御幣稲穂これは日比で縄綯いの手ほどをしてくれたIさんが育てたものを頂いた)を取り付ければ、手作り感のあるしめ縄にも有り難みも増したような気がする



しめ縄の力
こうして大しめ縄が完成した。着想からわずか一月でこれほど大きなものが形になったという感慨にしばし耽る。ただ、大きさの割にどこか呆気ないほど “するすると” 出来上がった、というのが率直な感想だ。多くの人の知恵と手を借りることが出来たということが理由としては大きいが、それだけではないように思う。



しめ縄の存在感はどこから来るのだろう?
大きさや造形としての力強さもあるが、しめ縄を構成している一本一本の藁に由来するように思う。それは、近年目にする様になったビニール紐で編まれたしめ縄の「作り物っぽさ」を考えれば分かる。
稲藁を編み上げるのは私たち人間だが、そこに凝集されているのは稲を生長させた自然の力そのものだ。人間は、自然の造形に少し手を加えたに過ぎないそう考えると、しめ縄を作るとき感じた腹の底から突き上げる様なえも言われぬテンションも、自然の力を編み上げ凝集させることで目に見えない力の分け前に与ったからではないかと思える。


稲は収穫を終えたら用済みになるわけではない。稲藁は、堆肥となって土を肥やし春に備え、しめ縄となって共同体のリズムを生み出す。年中行事としてのしめ縄は、収穫終え自然の力が弱まったかに見える冬、自然と植物が織りなすサイクルを人の手で再現し、賦活しようとした先祖たちの祈りの形かもしれない。そうした大きなサイクルも含めてしめ縄の表現と考えれば、「稲を育てる」ことをしめ縄作りの始まりとしても良いし、朽ちた大しめ縄が苗床となって小さな葉葉が芽吹く姿を想像するのも愉しい。

しめ縄作りは単純に面白かった。そして、もっと面白くなると予感させるものがある。



 

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