2015年1月18日日曜日

■ 大槌島と御前(みさき)八幡宮    2015年1月

これまでの向日比での活動には、二つの中心があるように思える。
一つ目の中心は明神鼻の小屋。これを陸側の中心とすれば、海にはもう一つの中心として大槌島がある。初めてこの岬に立った時から大槌島の存在は気になっていたが、小屋の持ち主の披露してくれた山桜の話を聞いたことで、いっそう惹かれる存在になった。


 茶会と花見に向けて

この日の午前、ようやく小屋と大槌島、二つの中心を繋ぐ細い道が拓かれた。向日比で活動を始めて半年余りが経過したこの日、朝からの剪定で木々のわずかな隙間から大槌島が見えるようになった。両脇に繁茂する常緑樹が、島の稜線の美しさを際立たせる。正午頃には、島の上に昇った太陽が海に反射し、光の筋を小屋に伸ばす。これで大槌島を彩る山桜の季節も迎えられるだろう。

……ところで、昨年末の顔合わせをきっかけに、4月には茶会を開きたいと計画しているが、それには大きな課題がある。トイレの問題だ。「道場」が開かれていた当時は、小屋の利用者の大半が男性であったため、野雪隠で済ませていた。だが、私たちのメンバーには女性も多く、茶会を開くとなれば女性の割合がさらに高くなるだろう。小屋は集落から離れており、近くに公衆トイレもない。かといって、景観的にも簡易トイレを置くことは避けたい。頭を悩ませる問題だ。


 大槌島の伝承について

私たちの活動の中心のひとつである大槌島は、地元にとってはどのような存在だろうか?
まず、大槌島について岡山県人のあいだでも比較的知られた話としては、讃岐側との漁場をめぐる争いであろう。県境によって南北に分かたれた大槌島の周囲は、争いが起こるほどの好漁場だ。ここ日比・向日比にとって重要なのが大蛇伝説である。それは次のような話だ。

  「 かつて大槌島に棲んでいた大蛇が、夜ごと島から渡って来て、人々を悩ませていた。
  ある日、村人(あるいは村外の者とも)の夢の中に神からのお告げがあり、弓矢で
    蛇を射抜く。蛇を倒した弓矢の所在は転々とし、今ではその行方は知れなくなった。
    一方、蛇の骸(下あごの骨)は現在も御前(みさき)八幡宮に伝えられている。」


………これはあくまで個人的な見解に過ぎないが、この大蛇退治の説話が成立する背景には、単なる勧善懲悪の筋書きには収まらない背景があったように思えてならない。たとえば、地元の御前八幡宮には、現在も蛇退治の説話とともに「下あごの骨」が伝えられているが、この地には御前八幡宮の他にも、「蛇のウロコ」を祀ったという大槌神社の祠がひっそりと遺されている。また、近隣には「水神の使い」としての大蛇が漁師を救った伝承があり、大槌島の隣の小槌島には龍神信仰や雨乞いの伝統があった。さらに視野を拡げれば、奈良の三輪山がそうであるように、古来、円錐形の山は蛇に見立てられ、山そのものが信仰の対象となっていた。こうした背景を考えると、大槌島の蛇もかつては信仰の対象であったのでは、と思えてくる。蛇退治の説話は、そうした古い信仰から脱し自然の力と人間の力が逆転する様をドラマチックに印象づけた創話ではないか。もちろん、こうした仮説は容易に答えの出るものではなく、腰を据えて検討する必要はある。ただ、大槌島を眺めるとき、蛇退治とともにそうした背景を想起することで、島への関心はより深まるのではないだろうか。………
        ※「玉野の伝説」(HP)に大槌島の伝説についての記載がある
               http://tamano.imawamukashi.com/umi/umi-3.html


 御前八幡宮にて

剪定を終えた後、昼食を挟んで地元の方二名と合流し、御前八幡宮の宮司に話を伺いに行く。大槌島は香川県と岡山県で二分する形で管理されており、岡山県側の島の土地の所有者が御前八幡宮だ。大槌島にはオオワタツミ(大綿津見神・大海神)、トヨタマヒメ(豊玉姫)が祀られ御前八幡宮の氏子によって毎年四月に清掃活動が行われている。最近になって鳥居の跡などが見つかったが、この鳥居の存在は話としても伝わっていなかったそうだ。


大槌島の大蛇について話を伺った後、退治された大蛇のものと伝えられる「下あごの骨」を見せてもらう。木箱に収められた「骨」の正体が何であるかは分からないが、全身を含めれば裕に数メートルは越える大蛇だろう。ところで、これは初めて聞くはなしだったが、この骨とは別に、蛇退治をした人物の子孫が大蛇の「ウロコ」を保管しているそうだ

現在は、八幡宮の前には住宅が建てられているため海は見えないが、かつては塩田が広がり、大槌島も望めたという。


話を伺った後、大槌島の姿を確認するべく裏山に登る。拝殿より少し高い位置にある本殿まで登ると、おもむろに大槌島が姿を現す。
島は想像していたよりもずっと近くにあり、神社に正対している。そのため、本殿・拝殿と大槌島は一直線に連なり軸線を成している。これが立地上の偶然の産物なのか、意図されたものかは分からない。ただ、あらためてこの土地にとっての大槌島の存在の大きさが実感された。




時代の移り変わりと共に古い記憶が薄れてゆくのは自然な流れだろう。寂しくもあるが人間の忘れ易さを嘆くよりは、その魅力に一歩でも近づきたい。
この日の朝、生い茂った木の間から見えた大槌島、夕刻に御前八幡宮の裏山から見えた大槌島の姿を見て確信したことは、たとえ人々の記憶から失われても、人の手の及ばない地理・地形は古い記憶を留めているといことだ。その土地に身体を浸す充分な時間と好奇心さえあれば、朽ちかけた細い記憶の糸を辿ることもできるだろう。


 漂着する神

後日、文献を見ていると、御前八幡宮として合祀される前の「御前神社」について記された一文に興味を惹かれた。御前神社建立の由来には二つの説があるが、そのなかの一つ、「讃岐国綾歌郡松山村高屋にあった社が、洪水のため社殿もろとも流失し、それがこの地に流れ着いたので、村人がこの海岸に奉斎した」という一文だ。さらに「高屋の人は毎年例祭には必ず代表で参拝することが続いている」と続く。(『玉野市史 続編』p.122)

かつて、海を隔てた香川と岡山には、金比羅山と由加神社を詣でる「両参り」という風習があった。御前神社が讃岐に由来するという話は、両参りとは別の、よりローカルな形で、両県に様々な繋がりがあったことを伝えている。

御前神社があったという香川の高屋へのアプローチに興味が湧く。それは私たちの活動する向日比地区を対岸から眺め、香川との繋がりを考える良い機会になるだろう。記憶の糸を辿る作業は、史料を渉猟するだけではなく、もっと創造的であっても良い。4月の茶会には、香川からお茶の先生を招聘したいものだ。