■ 御前八幡宮にて上映会 2015年10月
かつて日比には大きな船の山車を曵く秋祭りがあった。「船唄」でも知られた祭りは数百年の伝統を誇っていたが、戦前に途絶えた後は、舟唄の唄い手もすでに亡くなり、祭りの経験者の証言も途絶えようとしている。
そんな折、御前八幡宮の今は亡き先代の宮司さんにインタビューした記録映像がみつかった。そこで、八幡宮の社務所をお借りして、日比の歴史を調べ編纂している「ひびきなだ文化研究会」の方々と一緒に見ることにした。
失われた祭
先代のご子息である宮司さんも同席するなか上映が始まる。映像のなかで語られた祭りの様子は次のようなものだ。
……先頭は八幡宮の祀神でもある猿田彦がつとめる。天狗の姿をした猿田彦は大きな刀を携え、足元には一枚刃の高下駄という出で立ちだ。猿田彦の後ろには、元寇の役で活躍したような外観の大きな船の山車が続く。山車から流れてくる遊郭の女たちの三味線の音が祭りに華を添える。そして、山車の後ろに続くのが、鉄砲や槍・弓を担いだ隊列だ。……
そんな祭りは、時代が戦争へと突き進んで行く昭和17年(18年とも)を最後に途絶えてしまう。終戦後にも復活できなかったのは、祭りの道具を収めていた防空壕が土砂崩れで埋まってしまったからだ。祭りに使われた道具としては、猿田彦の携えていた刀が残されているだけだ。
上書きされる風景/記憶
祭りを伝えるものはめっきり少なくなったが、小さな発見もあった。
映像を見終えた後、宮司さんが2枚の古い写真を持って来てくださった。そのうち一枚は秋祭りの際に八幡宮の前で撮影された集合写真だが、よく見ると人垣の背後に船の山車らしき姿が見える。長さは7〜8メートルはあるだろうか。土中に埋もれてしまう前の姿を伝える貴重な一枚だ。もう一枚の写真は、八幡宮の背後から海側を望んだもので、亀浜塩田や貯木場の向こうには大槌島が見える。塩田は昭和43年頃に埋め立てられ住宅地となり、新たに「御崎(おんざき)」という町名が当てられた。町名がすっかり定着した今となっては、こうした町名の歴史的経緯は忘れられ、御前(みさき)八幡宮の名称が町名に由来するかのような逆転さえ起こっている。風景の変化によって古い記憶も上書きされる。日常生活が前景化し、信仰が遠のくことを象徴する写真だ。
亀浜塩田と貯木場 |
塩田跡に出来た御崎町の家並み |