2015年11月20日金曜日

 旅館の跡をたずねる   2015年11月


観賞会からしばくらくして、ひびきなだ文化研究会Fさんより一報が入る。
近く取り壊される予定の旅館を営んでいた建物に入る許可を取り付けて下さったのだ。家財は既に処分されてしまったとはいえ、何か往事を偲ぶものが残されてないだろうか……そんな淡い期待を胸に現地へと足を運んだ。



ちどり旅館

写真のように外観はまだしっかりしている。
建物中央の階段を上って左側には大広間、右側の折れ曲がった廊下沿いには小部屋が連なる。日本旅館に特有の奥へと誘い込まれるような造りだ。二階の家財はきれいに処分されていたが、一階には客用の椀などが僅かに残されている部屋があった。ガランとした建物のなかで、この部屋にだけは人の気配がある。聞けば、地元の女性がしめ飾りをつくる作業場として使っているとのこと。作ったしめ飾りは近所に配っているそうだ。このときはあまり気に留めなかったが、このしめ飾り作りが私たちの活動にとって重要なきっかけとなった。

 


日比の散策

旅館をあとにして、かつての港街の賑わいの跡を求めて周辺を歩いてみるが、空き地ばかりが目立つ。たまたま声をかけてくださった近所の方によれば、遊郭を営んでいた建物はすでに取り壊され、ダンスホールも空き地になってしまった。射的のあった遊技場も近々取り壊す予定だという。「昭和を感じる風景は、ほとんどなくなったなぁ」という案内してくださった方の言葉が身にしみる。




大槌島としめ縄
消えゆく風景のなかに私たちの活動の手がかりを得るのは難しいのか……
そんな想いを抱えながら、明神鼻の小屋にたち寄る。木立のあいだからのぞく大槌島は、湿った空気に霞みながら静かに鎮座している。その変わらない姿にいつにも増して安心感を覚える。八幡宮から見えなくなってしまった大槌島も、ここからはよく見える。
茶会をはじめこの活動は大槌島を中心にした一年だった。そんな一年の節目に、しめ縄を木立のあいだに渡して大槌島を眺めてみたい。そういえば、廃旅館の片隅でしめ飾り作りが続けられていたことも、何かの縁だろう。
夏には大槌島に渡って自生する木の苗を小屋の前に移植した。今はまだ小さな苗が、大槌島と明神鼻をつなぐ緑の参道に育つにはまだ年月がかかるが、大槌島と私たちとのあいだいには既に道が拓かれている。春の茶会では大槌島から猿田彦を招いて御前を努めてもらったからだ。しめ縄は、そんな目には見えない道の存在を示してくれるだろう。私たちには、失われた祭りの復活や再現は出来ないが、祀ることの初源に立ち戻ることになるかもしれない。





2015年10月28日水曜日



■ 御前八幡宮にて上映会    2015年10月

かつて日比には大きな船の山車を曵く秋祭りがあった。船唄」でも知られた祭りは数百年の伝統を誇っていたが、戦前に途絶えた後は、舟唄の唄い手もすでに亡くなり、祭りの経験者の証言も途絶えようとしている。
そんな折、御前八幡宮の今は亡き先代の宮司さんにインタビューした記録映像がみつかった。そこで、八幡宮の社務所をお借りして、日比の歴史を調べ編纂している「ひびきなだ文化研究会」の方々と一緒に見ることにした。

失われた祭
先代のご子息である宮司さんも同席するなか上映が始まる。映像のなかで語られた祭りの様子は次のようなものだ。

……先頭は八幡宮の祀神でもある猿田彦がつとめる。天狗の姿をした猿田彦は大きな刀を携え、足元には一枚刃の高下駄という出で立ちだ。猿田彦の後ろには、元寇の役で活躍したような外観の大きな船の山車が続く。山車から流れてくる遊郭の女たちの三味線の音が祭りに華を添える。そして、山車の後ろに続くのが、鉄砲や槍・弓を担いだ隊列だ。……

そんな祭りは、時代が戦争へと突き進んで行く昭和17年(18年とも)を最後に途絶えてしまう。終戦後にも復活できなかったのは、祭りの道具を収めていた防空壕が土砂崩れで埋まってしまったからだ。祭りに使われた道具としては、猿田彦の携えていた刀が残されているだけだ。



 
映像を見終え、「かつての港街の賑わいを伝えるものは残っていないものか」という話題になる。日比に詳しい文化研究会のFさんによれば、かつて旅館を営んでいた建物が近々取り壊される予定で、家財はすでに業者が処分してしまったとのこと。私たちが「もったいないなぁ」ともらしていると、「もっと早く聞いていれば伝えたのに」と残念そうだ。地元の歴史を調べてきた会とはいえ、あまりにも身近な歴史にはそこまで関心を持てなかったということなのだろう。旅館の家財は処分されたということだが、建物自体はまだ残されている。そこで、取り壊す前に屋内を見せてもらえないかとFさんにお願いしておいた。


上書きされる風景/記憶
祭りを伝えるものはめっきり少なくなったが、小さな発見もあった。
映像を見終えた後、宮司さんが2枚の古い写真を持って来てくださった。そのうち一枚は秋祭りの際に八幡宮の前で撮影された集合写真だが、よく見ると人垣の背後に船の山車らしき姿が見える。長さは7〜8メートルはあるだろうか。土中に埋もれてしまう前の姿を伝える貴重な一枚だ。


もう一枚の写真は、八幡宮の背後から海側を望んだもので、亀浜塩田や貯木場の向こうには大槌島が見える。塩田は昭和43年頃に埋め立てられ住宅地となり、新たに「御崎(おんざき)」という町名が当てられた。町名がすっかり定着した今となっては、こうした町名の歴史的経緯は忘れられ、御前(みさき)八幡宮の名称が町名に由来するかのような逆転さえ起こっている。風景の変化によって古い記憶も上書きされる。日常生活が前景化し、信仰が遠のくことを象徴する写真だ。


亀浜塩田と貯木場
塩田跡に出来た御崎町の家並み










2015年8月28日金曜日

■ お菊明神と地踊り   2015年8月

お菊明神
ひびき灘から向日比の集落まで一望できる岬、明神鼻には小さな石の祠がある。正面には菊の文様と「菊大明神」、側面には「天保十四年卯天九月吉辰日、氏子中世話人与吉良繁造、清五良」と刻まれている。この祠は江戸時代、父親に海に投げ込まれ殺(あや)められたと伝えられるお菊を供養した “お菊明神” だ。お菊の身の上に起きた悲劇は次のように伝えられている(※)

……昔、お菊という親孝行な娘が貧しい漁師の家に暮らしていた。ある日、父親との口争いが元となってお菊は縄でしばられ海に投げ入れられ死んでしまう。お菊を可哀想におもった村人は、港の見える岬の上に小さな社を建て供養した。 今もお菊は豊漁と漁場の安全を護ってくれると信じられ、毎年欠かさず祭りが続けられている……

       ※ 河井康夫著『玉野の伝説』昭和53年より要約。
         現在HPで全文が公開されているhttp://tamano.imawamukashi.com/tera/tera-5.html


にわかに信じ難いほど凄惨な内容だ。伝承とはいえ(祠の作られた)幕末の天保14年(1843)はそう遠くない過去、「本当に父に殺されたのか?」「お菊さんは実在の人物か?」そう問いたくもなる。とはいえ、今となっては、どこまでが事実でどこからが創作なのかを確かめるのは難しい。
お菊の伝承に関して確かな事実は、村人がお菊を明神として祀ったこと、いつの頃からか始まったお菊を供養する地踊り(玉野地区に伝わる地踊りのなかで最も古いものだという)が現在にまで伝えられているということだ。幸い、今年発足から50年を迎える地踊り保存会が、明神鼻の小屋の持ち主であるYさんたちによって始められたものという縁もあって、お盆であるこの日、地踊りを見学させてもらえることになった。




お菊さんへの想い
早朝7時、すでに十数名の保存会の面々が集まっていた。「親孝行だったお菊を思いながら踊りましょう」とYさんが声をかけてから踊りが始まる。踊り手の多かった時は、祠を取り巻くくらい大きな輪になって踊っていたという。踊り終えたYさんにあらためてお菊さんのことを尋ねると、「普通の人はお墓に入るけど、良いことをすれば神になれる」と笑顔で応えてくれた。



ところで、お菊の伝説の背景に関心をもつきっかけは、昨年末にYさんの口から “お菊さん” が実在の人物であると聞いたこと、さらに「お菊は自ら身を投げたということを祖母から聞いた」という言葉を聞いたことにある。外部の人間にとって “お菊明神” は地域に残る伝承のひとつに過ぎないが、Yさんにとっての “お菊さん” は同じ土地に生きた実在の人物だ。この想いがなければ弔いの踊りを半世紀続けることは難しいだろう。この日を境に、伝説への関心は「お菊さんは実在の人物か?」から「なぜ、お菊を明神として祀ったのか?」というお菊をまつり伝える側の心情へと移った。

二つの盆踊りの距離
踊り終えたYさんたちは明神鼻を下り、翌日盆踊りが開かれる集落近くの公園へと向かった。こちらの踊りは先祖の霊を供養するためのものだが、二つの盆踊りがあるということが余計にお菊の哀しさを際立たせる。昨年、初めて明神鼻を訪れた際はこのことを知らずに、「お菊の哀話は盆踊りの口説きとして唄われているというから、今は祖霊とともに岬から集落を見守っているのだろうか」とブログに記したが、「祖霊とともに」の部分は、そうあって欲しいという願望からくる感傷的な解釈だったかもしれない。お菊さんの霊は “明神” として祀られたのであって、“祖霊” として弔われた訳ではないからだ。お菊さんの霊はどこへ行ったのか、なぜ お菊さんは村人によって明神として祀られたのか? その心情を理解する手がかりとして、地踊りのための口説きの内容を見ておこう。


口説きで語られたこと
今から40年ほど前に口説きを創作した宮川澄夫氏は「明神さまとしてお菊がまつられた理由については明らかでないし、お菊という人物についてもまた明らかでない」と前置きし、口説きについても「〈伝説を取り入れた物語〉に過ぎないことを十分認識してもらわねばならない」と述べたうえで、次のような物語に脚色している(※)

……お菊の父はもともと釣りの名士であったが、妻に病で先立たれたことで人が変わったように酒に溺れるようになる。ある日、父を諌めたお菊に逆上し徳利を振り下ろし殺めてしまう。父はお菊の亡骸とともに「母さんのもとで一緒に暮らそう」と夜の海に舟を出した。後日、お菊の死体は上がったが、父の消息は知れず……

※ 宮川氏による口説きの全文は、ひびきなだ文化研究会『ひびきなだ〜わがまちの歴史と文化〜資料編』2015p28-30に掲載されている。

父親が妻に先立たれたこと、殺害のあとの後悔と父の行方など、冒頭の『玉野の伝説』と較べると、父の立場に配慮した跡が伺われる。引き続き「明神さまとしてお菊がまつられた理由」についても見てみよう。

 年端もいかぬむすめごが 母への孝養神佛への 深い信心さらにまた
 不幸な最期とげながら その魂は死してなお ふるさと恋しとかえりくる
 おもえば深き因縁ぞと 誰いうとなく語られて 語り継がれているうちに
 いつしかお菊の怨念を 村の守りに祀らんと 港の見える丘の上に 
 ほこらを建てて春秋に 祈る願いは沖に出る 船の安全豊漁をと 
 その名お菊明神と あがめてまつる村人の 心はすでに二百年

注目したいのは、魂は死してなおふるさと恋しとかえりくる……お菊の怨念を村の守りに祀らん” の部分。ここには一片の真実があるように思われる。神として祀られるまでの間、お菊の魂は、他界に逝くことも現世に戻ることもままならず彷徨っていた。お菊の霊に投影されているのは、村人のお菊に対する贖罪意識や霊への恐れ/畏れといった生々しい心情だろう。
ここで想起しておきたいのが、日比の近隣に残されている「みさき信仰」の習俗だ。これは、事故や殺害など不慮の死を遂げた霊、あの世とこの世を彷徨う幽霊の祟りをおそれ、(祖霊とは別に)その霊を祀る民間信仰であり、村境の岬などがその舞台となる。こうした信仰は、お菊を明神として祀り、向日比に二つの盆踊りが継承されてきたことの心情的な理解の手がかりになるかもしれない

 お菊明神との関連だけでなく、御前(みさき)神社と大槌島の大蛇の関係など「みさき信仰」を軸に想像を巡らせるのも楽しい。詳しくは、三浦秀宥(19722000)「中国地方のミサキ」小松和彦編『怪異の民俗学2妖怪』、小嶋博巳(2001)「死霊とミサキ : 備前南部の死神伝承」小松和彦編『怪異の民俗学6幽霊』などを参照。

遺された者の物語として
宮川氏は自らの口説きについて「〈伝説を取り入れた物語〉に過ぎない」と述べていたが、そんな「物語」も「伝説」では語られない背景に迫るリアリティを持つものだった。それは伝説で語られるお菊の身に起きた悲劇が、同時に父親にとっての悲劇でもあったかもしれないということ、そして、お菊を祀った村人たちの経験した悲劇でもあるという背景にまで聴き手の想像力を広げてくれるからだ。お菊の伝承は、こうして、遺された者たちによる後日譚を書き加えながら、これからも語り継がれるだろう。